制作物を見る、ということ

色々な人の意見を聞いてみたいので、気軽にコメントなどをいただけるとうれしいです。


「モノ*1」を作り出す人は何らかの目的や意思を持ってそれらを制作していると思うのですが、それらの「モノ」に込められた「テーマ」はできる限り明快で、見る人達の生活実感に即したものの方が好ましいと私は考えています。
というのも、あまりにも実感から乖離した、いわゆる「言葉遊び」になってしまうと、自らでその真意を理解できる対象の範囲を狭めてしまうことになります。加えて、そういった形而上のテーマは技術的に相当に上手に表現しないと、観客にもその真意は伝わらない上に、単純にその制作物自体も面白くも美しくも無いという、無残な「自己満足」が待ち受けている可能性が大いにあります。そもそも、形而上の世界のタームを聞いた瞬間に思考停止に陥る人も少なくない、という厳然たる事実を「モノ作り」を趣味やそれ以上のものにしようともがいている私たちは意識しないといけないのだと思っています。


要は、「頭でっかちな言葉遊びに酔いしれてるとモノ作りの本質を見逃す」というお話でした。
というか、身の伴わない抽象的な議論から出発するモノ作りは嫌いだなぁ。「モノ」はあくまで「モノ」であって、具体そのものでしょうに。抽象的な概念で遊びたいなら文章や言葉を極める方向に行くのが健全だと思うんだけど。その種の自己満足をモノ作りでやられるのは迷惑極まりないよ……。まぁ、形而上を極めようと切磋琢磨している人々(それを哲学者*2と言うんだろうか)にとっても迷惑だろうけどね。結局、そういう人はどちらの領域においても中途半端な人々だからねぇ。

*1:ここでは三次元で人間が実際にそれを身につけたり用いたりする物体を指しています。制作物といってもアニメや映画などといった「ストーリー展開を主眼とするもの」は除外しています

*2:確かに間違ってはいないけど形而上学⇔哲学ではなくて形而上学∈哲学なんだよね……知らないくせに偉そうな事言うと恥ずかしいことの好例。